こんにちは!
さて、今回は数学の歴史をほんの少しだけ,紹介したいと思います。
みなさんは、ジョン・ネイピア(1550年-1617年)と言う数学者※を知っていますか?
(※数学者、天文学者とも言われますが「誰もが苦労する計算を簡単にする方法を生涯にわたって考え続けた人物」です。元々エンジニアであり、発明家でもあります。)
聞いたことがない、と言う人の方が多いと思いますが、【ネイピア数】【ネイピアの骨】と聞いたらピンとくる人もいるでしょう。
この【ネイピア数】、欧米では【オイラー数】とも呼ばれ※、今では高校数学にも出てくる自然対数の底 e のことを指します。
(※【ネイピア数】→【オイラー数】とも呼ばれますが【オイラー数】→【ネイピア数】ではありません)
レオンハルト・オイラー(1707年-1783年)は有名ですね。
なぜこの自然対数の底 e に、100年以上も時代の違うこの二人の名前が冠されているのでしょう。
この1500年台から1700年台は、数学と言う世界の、大変換点とも言える時代です。
例えば、ジェロラモ・カルダーノ (1501-1578)が3次方程式の解の公式を導く過程※で、2乗してマイナスになる数(虚数)の概念を初めて導入し、ルネ・デカルト (1596-1650)がその数を「nombre imaginaire(想像上の数)」と呼び、
オイラーが虚数単位として
√-1=i
を導入したことで、今日もそれが使われています。
※カルダーノの著書の中では、和が10,積が40となる2数を求める問題が載っていますが、これは2次方程式
x^2-10x+40=0
の虚数解になります。また、3次方程式の解法は、1535年頃ニコロ・フォンタナ・タルタリア (1500頃-1557)が先に発見し、それを公表しない約束でカルダーノがタルタニアから教えてもらっていたことから、この著書は二人の争いに発展しました。シピオーネ・デル・フェッロ(1465-1526)も独自にタルタリアと同じ解法を、タルタリアより更に先に発見していたことが、フェッロの死後、カルダーノとカルダーノの弟子の一人ルドヴィコ・フェラーリ(1522-1565)によって見つけられたことから、カルダーノはタルタリアとの約束を無効と考え、「フェッロとタルタリアの発見」であることを明記した上での公表であったものの、タルタリアの怒りは収まらなかったと言われています。
自然対数の底として用いられる e と言う定数記号※も、オイラーが導入したものなのです。
※eのような、定数の中で特定の数値を与える定数を数学定数と言います。π(パイ)、0(ゼロ,零)なども数学定数です。
e の近似値
=2.7182818・・・
を、初めて求めようとしたのはヤコブ・ベルヌーイ(1654-1705)と言われています(ベルヌーイは経済学者でもある数学者。ヨハン・ベルヌーイ(1667-1748)とは兄弟)。
複利計算の問題として、
(1+1/n)^n
のnを限りなく大きくしていくことを考えました。
この定数※に、初めて定数記号を割り当てたのはゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)であり、その定数記号として b を用いました。ベルヌーイはライプニッツと交流があり、ライプニッツから微積分を学んでいたと言われています(※ベルヌーイが考えた式は、nを無限に大きくしても一定の値に収束する=定数であることが分かっています)。
そして、のちにオイラーが、微分しても変わらない関数に対するその定数記号として e を用いたこともあり、また更にしばらくしたのちに e が標準的な記号として定着することになりました。
さて、じゃあネイピアは一体どこに出てくるのか?
1500年台と言えば0やマイナスの数さえ、実在しないもの、役に立たないもの、として用いられることが少なかった時代。十進法すら定着してるとは言い難い時代です。その頃に、カルダーノが提唱した2乗してマイナスになる数の概念など、誰にも理解できません。
同じように、小数と言う概念はあったものの、今使っている小数点の表記の仕方もなく、今では当たり前に使われている指数の表記の仕方ももちろんありません。
基本、それまで自然数と分数によって数学が表されていたのです。
エジプト分数が古くから研究され、大半の数学的概念が自然数と分数があれば事足りてきたことも、なかなか小数(今では使いやすいはずの十進法における小数)と言う概念にすら辿り着かなかった原因の一つではないかと考えられます。
しかしながら、三角関数と言う分野は、紀元前から絶え間なく、測量、建築、航海術、天文学等々の分野で大きく発展していました。
ただ、その計算の一つ一つ(とくにかけ算やわり算)に膨大な時間がかかっていたようです。それはそうでしょう。電卓もコンピューターもある訳がなく、小数どころか、かけ算の記号やわり算の記号も、そのひっ算すらなかったのですから。
その計算を短時間でできる術はないか。
それを考えたのがネイピアだったのです。
最初に紹介した【ネイピアの骨】とは、基本複数桁と1桁のかけ算の答えを、簡単な計算(たし算だけ)で出せる計算棒です。複数桁通しのかけ算やわり算は、今日本で学ぶひっ算とほぼ同じ形になりますが、(九九などを覚えていなくとも)たし算とひき算さえできれば答えが求められます。
そして
ネイピアは、三角関数で使われるsinθ(当時はSinus、θは度数法、円周を360等分した弧の中心に対する角度。1周は360°と表す。sin表記はウィリアム・オートレッド(1574-1660)の考案とされる。 × (乗法の記号)もオートレッドによる)の値に対する対数表を、20年の歳月をかけて作り上げました。
そこで用いたのが
Logarithms(Logos=神の言葉、Arithmos=数。ネイピアの考えた造語)です。
指数表記もなく、指数関数もなかったときに、「対数」の法則(今で言う指数法則)を初めて考えたのです(「対数」と言うと難しく聞こえますが、ネイピアのLogarithmsは指数そのものを示しています。そもそも「対数」とは指数のことを指しているのです。ここでも、かけ算やわり算をたし算やひき算に変換する方法を考えた、と言えば分かりやすいでしょう)。
ネイピアは
1-1/10000000
と言う数(今で言う底)を用い、これをかけ合わせることでsinθの値を求めました。
これが三角関数と対数関数の初めての出会いです!
(ネイピアと同時代に生まれたヨスト・ビュルギ(1558‐1632)も、ネイピアとは別に独自に対数を発見しています。三角関数の計算も対数の考え方を用いて行っていたようですが、その式自体は複利計算を念頭に置いていたのではないかと言われています。)
例えば
1-1/10000000を、47413851回かけ合わると0.00872654861831・・・になります。それを整数表記にするため10000000をかけたものが、ネイピアの対数表の87265です。
Sinus=87265⇔Logarithms=47413851
つまり、対数(Logarithms)とは、底(1-1/10000000)を何回かけ合わせたかの回数(今で言う指数)を示していることになります。
これはネイピアの対数表の30’ (30分)に載っている数字ですが、なんとネイピアの対数表は、1度を60等分した1分ごとの表になっています。
電卓で調べると
sin30’=sin0.5°=sin(π/180/2)=0.008726535・・(πrad=180°)
どれだけ根気のいる計算を続けたか想像を絶します。20年ですよ20年。
この過程でネイピアは、小数点を用いて計算していたことが、ネイピアの死後、ネイピアの息子によって明らかにされます。これにより小数点も普及していきます。
ネイピアは現在使われている小数点もこのときに考えていたのです。
(十進法における小数の概念は、ネイピアと同時期のシモン・ステヴィン(1548-1620)によって理論立てられました。ただ、小数表記の仕方が今とはまったく異なり、ステヴィンの小数は計算では使いにくいものでした)
しかし、1-1/10000000は、小数で0.9999999。
この不思議な底が一体何を意味するのか誰にも分からず、残念ながらこの対数の底については見向きもされません。
その後「対数」は、ネイピアからヘンリー・ブリッグス(1561-1630)に、底を10とする「常用対数」として託されることとなります。十進法の定着とともに、ネイピアの底は忘れ去られました。
このあと100年以上も過ぎたのち、オイラーがネイピアの対数の底
1-1/10000000
について、あることに気付きます。
それが・・・
と、、、今回は長くなったのでこのへんで。
このお話の続きは次のCOFFEE BREAKをお待ちください。
しかしここまでだけでも、どれだけの天才がこの時代を生きていたのか・・・
想像するだけでもゾクゾクします。
次の更新は11月10日頃の予定です。
では!
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